大師匠 故ケルチャラン・モハパトラ(ଗୁରୁ କେଳୁଚରଣ ମହାପାତ୍ର)

「グル・ケルチャランと私」櫻井暁美

1968年 写真中央は大師匠 故ケルチャラン・モハバトラ 写真左が櫻井暁美 右隣で伴奏をしているのが 若き日のジェナ師(現デリーにて多くの弟子をもつ 著名な師匠日本人の弟子も多い)

1968年 写真中央は大師匠 故ケルチャラン・モハバトラ
写真左が櫻井暁美 右隣で伴奏をしているのが
若き日のジェナ師(現デリーにて多くの弟子をもつ
著名な師匠日本人の弟子も多い)

私の生涯で、グルジイは、二人だけである。
そしてケルチャラン・グルジイは、私が初めて、グルジイとお呼びした方である。

1968年、西インド、バロダ大学に留学中の夏休みに、東インド・オリッサ州でオディッシイの集中講座が開かれることを知り、たった一人で参加を決めたのだ。
汽車でボンベイへ8時間。そこから空路カルカッタへ2時間、そしてまた汽車で一晩乗り、着いた所は、カタックという田舎町だった。
駅前から、大きなトランクともども揺られながら牛に引かれて、辿り着いた所は、立派な構えの舞踊学校『カラ・ヴィカシュ・ケンドラ』であった。

受講生は、男女、年齢も様々で、すでに他のダンスを修めた教師、ダンサー、生徒がインド各地から集まっていた。その当時、オディッシイは、まだ完全に古典舞踊の範疇に入っておらず、新しいものを求めるダンサーには、将来性においても魅力的だった。

40歳そこそこのケルチャラン・グルジイは、宇野重吉にも似た飄々とした風貌ながら、一度教え始めるや、とどまる所を知らず熱中した。
これが、最初の強烈な印象である。
もうひとつは、毎回振り付けを変えてしまうのだ。しかも、より複雑なフットワークになってゆくので習う方は必死であった。
そのお陰で、バラタナティヤムの癖も短期間で取れ、オディッシイの魅力に浸りきることができた。

それから20年ほど後、門下生共々オリッサ州でバラタナティヤムの公演をする機会があった。
その折、グルジイのおっしゃった朴訥な英語の一言が忘れられない。
『あけみは、(どうしてオディッシイを)踊らない(のだ)』に、今でも私の胸はキュンとなり、泣けそうになる。
慈愛に満ちたまなざしを目の前に感じながら「どうぞお許しください」心の中で今も許しを乞うている。
でも、グルジイから教わったオディッシイの真髄は私のインド舞踊の世界でしっかり生きていることを確信している。
計らずも、本日のコスモスはグルジイから頂いたオディッシイの音楽を振付けたものである。

感謝を込めて


2004年5月30日
インド舞踊へのいざない パート23
「インド舞踊物語」パンフレットに記載

本文は2004年4月7日、78歳の生涯を全うした東インド古典舞踊オディッシイ再興の祖、グル・ケルチャラン・モハバトラの冥福を祈り、櫻井暁美が追悼文として書き上げたものである。